岩子島と漁町に降った金子
どんな伝承か
尾道の御札降りは慶応三年十一月末から翌年の正月まで続いた。記録者の家では慶応四年辰の正月三日に大神宮が授かり、十一日には今日まで所々に降り続いていると記す。そしてこの日までに、岩子島の渡田要平方へ金五十両と札四百目が、当漁町へは金十両が降ったと書き留めている。降った家では内に七五三を張り、門には笹を立てて、諸人へ酒を酌み飲ませるのが習いであった。長州勢が六日に福山へ発向したことも同じ記事に見える。
原典より
岩子島渡田要平方へ金五拾両札四百目、当漁町へ金拾両御ふり候事、—— 尾道市史 -新修-第2巻(尾道市史) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
尾道市史 -新修-第2巻(尾道市史)
『尾道市史 -新修-第2巻』は、第二十一節「「お札降り」と「ええじゃないか」」だけを収めた抜粋である。慶応三年の冬、尾道で伊勢大神宮などの御札が降ったとして町中が踊り騒いだ一件を、尾道一宮社文書、芸藩の会計係の「尾道出張日記」、友松山荘の「伝家録」で示し、竹原下市の頼家の日記や書状、広島の例と比べる。後半は学界の諸説を紹介し、栗田年誌から米価の高騰や竹原の打ちこわし、栗原村の徒党の記録を引いて、世直しの動きとの関わりを論じる。