権現山に上った栗原村竹屋組の徒党
どんな伝承か
慶応三年の正月、米や麦の値上がりで尾道の町の暮らしが苦しくなっていたころ、栗原村の竹屋組の者が三十人ほど徒党を組み、夜のうちに権現山へ上って人を集めた。十九日、町年寄らは奉行所に呼ばれてこの知らせを受けた。同じ村の庄屋である高田屋闖三郎と蔵本屋豊次郎がすぐに駆けつけたものの、米の嘆願なのか何なのか、目的はまるでつかめなかったという。その日の夕方、割庄屋の元五郎から、張本人のおおよその見当がつき騒ぎは鎮まったとの届けがあった。
原典より
夜前栗原村竹屋組之者三十斗徒党いたし、権現山え上り人集め致候由—— 尾道市史 -新修-第2巻(尾道市史) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
尾道市史 -新修-第2巻(尾道市史)
『尾道市史 -新修-第2巻』は、第二十一節「「お札降り」と「ええじゃないか」」だけを収めた抜粋である。慶応三年の冬、尾道で伊勢大神宮などの御札が降ったとして町中が踊り騒いだ一件を、尾道一宮社文書、芸藩の会計係の「尾道出張日記」、友松山荘の「伝家録」で示し、竹原下市の頼家の日記や書状、広島の例と比べる。後半は学界の諸説を紹介し、栗田年誌から米価の高騰や竹原の打ちこわし、栗原村の徒党の記録を引いて、世直しの動きとの関わりを論じる。