浄土寺山で火を焚いた天保飢饉の一揆
どんな伝承か
天保八年の大飢饉は全国に及び、大塩平八郎が決起したのもこのときである。尾道の記録である栗田年誌は、そのころ尾道で起きた一揆を短く書きとめている。三月十日、尾崎の者がおよそ百三十人で徒党を組み、浄土寺山へ上って火を焚き、法螺貝を吹き鳴らして、ひと晩じゅう騒ぎ立てた。すぐに郡と町の役人が出張し、翌十一日の昼過ぎには召し捕られた。ほかに変わったことは起こらず、騒ぎは早々に収まったという。
原典より
尾崎之者百三十人斗徒党致、浄土寺山へ参り火をたき、ほらがいを吹立、一夜騒動いたし候、早速郡町役人出張二相成、十一日昼後召捕二相成、何之無別条早々鎮リ申候。—— 尾道市史 -新修-第2巻(尾道市史) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
尾道市史 -新修-第2巻(尾道市史)
『尾道市史 -新修-第2巻』は、第二十一節「「お札降り」と「ええじゃないか」」だけを収めた抜粋である。慶応三年の冬、尾道で伊勢大神宮などの御札が降ったとして町中が踊り騒いだ一件を、尾道一宮社文書、芸藩の会計係の「尾道出張日記」、友松山荘の「伝家録」で示し、竹原下市の頼家の日記や書状、広島の例と比べる。後半は学界の諸説を紹介し、栗田年誌から米価の高騰や竹原の打ちこわし、栗原村の徒党の記録を引いて、世直しの動きとの関わりを論じる。