会津籠城兵の脱出から生まれた踊り
どんな伝承か
那賀・海部・勝浦の古老が伝える説によると、慶応の末の初秋、会津の城は官軍に何十日も囲まれ、兵糧も尽きていた。城を抜け出した使者が城下で義侠心に厚い関取に助けを求めると、関取は官軍の慰労と称して天守から見下ろせる場所に大きな相撲場を設け、近在の力士と群衆を集めた。官軍の将兵も加わって勝負に熱中するうち、夕闇にまぎれて籠城兵が二、三人ずつ逃げ出した。気づいた官軍が追うと、逃げる兵も群衆も「ええじゃないか」と叫んで間に割って入った。助かった兵は民家で酒食をふるまわれて踊り出し、城下の人々も加わって、その踊りが江戸を経て西国へ広がったという。
原典より
第一の會津籠城兵脱出時に於ける騒擾を起因とする説は、主として那賀・海部・勝浦方面の古老が当事の傳聞を記憶してゐて語るところであるが、略つぎの如くである。—— 阿波えゝぢやないか(山口吉一・民俗・幕末世相史・1931年(昭和6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
阿波えゝぢやないか(山口吉一・民俗・幕末世相史・1931年(昭和6年))
『阿波えゝぢやないか』は、山口吉一が一九三一年に著した、幕末の「ええぢゃないか」騒動の記録である。慶応三年の暮れに阿波で起きたお札降りと踊りの騒ぎを、県内の古老五十余人からの聞き書きと郡村史誌などの記録によって、起因・神異・服装・歌謡・禁忌などの面からたどる。徳島日々新報への連載をまとめたもので、概観篇・詳述篇・挿話篇・補遺篇から成り、鳥居龍蔵の序、話者の古老の一覧、太田明の「御下り踊私考」を付す。