吸江淵の崖の赤子の声と淵に舞う火
どんな伝承か
付録の筆者は、決して嘘をつかなかった父から聞いた話を書き留めている。父は若いころから数え切れないほど夜道を歩いたが、怪しいことに出会ったのは、辻堂で赤子の泣き声を何度か聞いたことと、吸江淵で火の玉を二度見たことだけだという。公務で川西から横山へ通い、丑三つ時に帰る夜が月に何度もあったが、万谷から辻堂へかかる左手、吸江淵の崖の竹藪の中で赤子がしきりに泣いているのを聞いた。初夏に多かったように思うという。また錦帯橋の上から吸江淵を見下ろすと、たくさんの火が淵の上に燃え上がって東へ西へさまよい、やがて一つにまとまって大きな火となり、消えてしまったこともあった。
原典より
余が父は余と同じく、決して虚言せざる人なりしが、一日余に語りて云へらく、「余は少時より夜行せしこと幾回なることを知らず。—— 岩邑怪談録(広瀬喜尚(増補:今田純一/続録・編:藤田葆/付録:静間密/昭和版編集:宮田伊津美)・1976年(昭和51年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
岩邑怪談録(広瀬喜尚(増補:今田純一/続録・編:藤田葆/付録:静間密/昭和版編集:宮田伊津美)・1976年(昭和51年))
『岩邑怪談録』は、岩国藩士広瀬喜尚の怪談録に後人の増補と続録を合わせ、岩国徴古館が昭和五十一年に発行した資料集である。岩国周辺で人々が出会った化物・大坊主・生首・怪火・狐狸・天狗倒し・幽霊などの話を収め、藤田葆が編んだ『岩国沿革志』のうちの二冊を底本に、なるべく原文のまま新字に改めて載せる。広瀬の本録に、今田純一の追加、藤田の続怪談録と実事談・変死、静間密の付録五話を続け、巻末に語注を付す。