桜の下の身寄りなき女
どんな伝承か
暖かな春の夜、朧の月が霞のように町を照らしていた。江戸川縁に住む若い侍が本郷の親類の家で酒を振る舞われ、いい心持ちで帰る道である。伝通院の前を過ぎ、切支丹の山屋敷の手前の坂を下りて中ほどまで来ると、右側の桜の木の下に人影が見えた。花は音もなく散り、その影の上にも落ちている。近寄ると黒っぽい絹の衣服を着た色の白い美しい女で、道に迷ったふうであった。第六天坂の下に叔母がいると聞いて浜松在から訪ねてきたが、叔母はとうに引っ越していて行き場がないという。宿を乞われた侍は独り身であることを恥じらいながら承知し、女を連れて坂を下りていった。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本の怪談(二)(田中貢太郎・日本の怪談シリーズ)
『日本の怪談(二)』は、田中貢太郎が著した怪談・奇談の短編集である。著者の郷里である土佐の高岡郡や長岡郡の山村の話を多く含み、越中の放生津や立山、利根川の河口、館林の城下、江戸の碑文谷などを舞台に、蟹や蛇の怪、鮭の祟り、山姑、亡者宿、切支丹の処刑にまつわる怪異を物語の形で書く。「蟹の怪」から「鶏物語」まで二十八篇を収め、友人から聞いた話として語る篇もある。