藩が許した高遠城下の豊年祭り
どんな伝承か
慶応三年十月、高遠の城下では四日に伊勢皇太神宮と疫病よけの札が降ったのを皮切りに、十五日からは連日のように札が降って大騒ぎとなり、町年寄の控え帳によれば札の降った家は二七五軒にのぼった。とりわけ二十日からの五日間に二百枚以上が集中した。札が降るたびに家々は笹を立てて灯を供え、近所を招いて赤飯や餅でもてなしたので、町じゅうが騒がしくなった。藩の役所は二十三日、気が大きくなりすぎているとして幟を下ろさせるつもりでいたが、各地の様子を知ると、これは神のなせる業で止めようがないと考え直し、天下泰平と五穀豊穣を祈る名目で二十六日から二十八日までの二夜三日の祭礼を認めた。町年寄三人の名で触れが回ると、城下の町々は台引きや伊勢音頭、手踊りやはだか踊りを競い、周りの村々からも俄ばやしが繰りこんだ。騒ぎは藩のねらいどおり豊年祭りとして収まり、二十九日からは札もほとんど降らなくなった。
原典より
このとき、「豊年じゃ豊年じゃ、世の中陽気がようなって、五穀成就でおめでたい、あまたのお札がちいらちら、ふったぞふったぞ、おめでたい」といってはやしたという。—— 長野県史 通史編 第6巻(長野県史) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
長野県史 通史編 第6巻(長野県史)
『長野県史 通史編 第6巻』のうち、第七章第五節「木曽騒動とお札降り」の二「お札降り」の項を収める抜き書きで、冒頭は佐久地方の村方騒動と軽井沢宿の打ちこわしを述べる段の途中から始まる。慶応三年七月に三河で始まったお札降り・ええじゃないかが伊那谷と中山道を経て信濃に広がり、下伊那・上伊那・高遠・諏訪・木曽・松本平・北信の村や宿場で降札と祝祭が起きたさまを、村の記録や日記からたどる。最後に世直りへの期待と維新との関わりをまとめる。