海士町豊田というところ
どんな伝承か
宇賀の人狐は対岸へ飛んだ。現在の海士町豊田と菱浦である。なかでも豊田での展開はすさまじく、二軒を除いてほとんど村ぐるみが狐持ちに指定されるまでになった。海士は歴史の町で、承和五年に小野篁が豊田へ流され、承久三年には後鳥羽上皇が配流となって在島一九年ののちこの地で崩御している。豊田は海士の東北端にあって島後とは最短距離、天然の良港を抱えて島前の表玄関の役目を果たした。江戸期を通じ島後郡代の公用船はまずこの港に着き、村々の宿舎も置かれた。港には五隻の小渡海船と九八艘もの漁船がひしめき、豊田は海士のどの部落より早く貨幣経済の洗礼を受けた。
原典より
現在の海士町豊田と菱浦とである。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。