義経が腰越状を書いた万福寺
どんな伝承か
平家を壇ノ浦で滅ぼした義経は、捕らえた平宗盛父子を連れて鎌倉へ向かったが、無断で官位を受けたことや軍監の梶原景時との争いを理由に、頼朝から鎌倉入りを禁じられた。義経主従は鎌倉を目前にした腰越の万福寺に留まり、起請文を出したり有力な御家人にとりなしを頼んだりしたが、兄は会おうとしない。元暦二年、滞在一か月ほどで義経は政所の長官大江広元あてに長い嘆願書を送った。幼くして父を失い流浪の苦労を重ねたことから書き起こし、野心のないことを切々と訴えたこの書状が腰越状である。それでも許されず、義経は京へ戻って反旗を翻すことになる。寺には下書きの写しや弁慶の椀が伝わる。
原典より
仕方なく義経主従は、鎌倉を目前にしたこの腰越の万福寺を仮の宿舎としてとどまり、起請文を提出したり、幕府の有力御家人にとりなしを頼んだりして、何んとか頼朝の勘気を解こうとしていた。—— 神奈川の史実と伝説(小森良章・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
神奈川の史実と伝説(小森良章・1975年(昭和50年))
『神奈川の史実と伝説』は、新聞記者から県政の仕事に転じた小森良章が昭和五十年に著した郷土史の読み物である。倭建命の東征から鎌倉幕府の滅亡までを範囲に、神奈川県内に残る伝説を十一の篇にまとめ、走水の弟橘姫や足柄山の金太郎などを取り上げる。各篇は伝承地を副題に掲げ、伝説とその背景にある史実を結びつけて語り、古事記や吾妻鏡などの記録を引きながら著者の推測も交えている。