遊女豊菊の抜舟と死
どんな伝承か
新吉原の遊女は一人ずつ、七度ほど八丈島へ流されている。罪名の記されている三人はいずれも火付けであった。豊菊はその最初で、文政四年の春に送られ、島で丸二十五年の苦界を勤めたのち、弘化二年六月に抜け舟を企てた。企てには浄土宗の僧宝禅、小普請組の幕士阪本茂三郎、ほかに三、四人の博徒が加わっていたが、沖合で召し捕られ、豊菊は十一日目に死んでいる。加担した者も半分は沖で死に、残りは吟味の最中にみな死んだ。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第1巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第1巻』は、柳田国男の著作を集めた著作集の一巻である。椰子の実の漂着から日本人の渡来と稲作を海の道に求める論考と、海神宮考・みろくの船・根の國の話・寶貝のこと・稻の産屋などの諸篇、大正期の南島旅行に基づく『海南小記』、昭和二十六年八月の自序をもつ『島の人生』を収める。いずれも海と島を舞台に、ニライカナイや宝貝、漂着や島の復興をめぐる民俗と歴史を論じている。