明和の凶年と大量餓死
どんな伝承か
同じ災害が六十六年を隔てて、明和三年から四年にかけてもう一度おこった。このときも島民がかなり死に、流人も二十人近くが餓死している。薩摩芋のありがたみがようやく認められたのは、この痛ましい経験を経てからのことであった。天明三年の凶作のあと幕府は三年ほど流人の送り出しを見合わせたが、明和の年にはまだそうした手加減をせず、前々どおりに囚人を島船へ積み出していた。その多くが一年あまりのうちに死んだのも、おそらくは食べ物のせいであったろう。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第1巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第1巻』は、柳田国男の著作を集めた著作集の一巻である。椰子の実の漂着から日本人の渡来と稲作を海の道に求める論考と、海神宮考・みろくの船・根の國の話・寶貝のこと・稻の産屋などの諸篇、大正期の南島旅行に基づく『海南小記』、昭和二十六年八月の自序をもつ『島の人生』を収める。いずれも海と島を舞台に、ニライカナイや宝貝、漂着や島の復興をめぐる民俗と歴史を論じている。