忍水攻戰趾
どんな伝承か
天正十八年、天下統一を進める豊臣秀吉は小田原の北条氏直を攻めるにあたり、麾下の石田三成に北武蔵の忍城攻略を命じた。忍城主の成田氏長は弟の泰親とともに小田原に詰めており、留守を預かる弟の泰季がわずか四百余騎で城を守っていた。三成は三万の大軍で城を包囲し六月一日に総攻撃をかけたが、忍城は案外に堅固で、二千五百ほどの小勢を巧みに動かす泰季の指揮と、領内のために一致協力した城下の町民の働きにより、包囲は長引いて容易に落城しなかった。攻めあぐねた三成は、ついに高松城攻めの故智にならい、利根川と荒川の水を引き入れて城下を水攻めにする策に出たという。
原典より
近畿を中心に、中部以西全部を平定して、當時旭日昇天の勢いに在った豊臣秀吉から、屢ば上洛を慫源されてゐた北條氏直は、舅に當る徳川家康と、奥州の地に蟠居する伊達政宗の存在に賴つて、秀吉からの督促に言を左右にし乍ら窃かに兵力を…—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・昭和初期(1920年代~1930年代)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・昭和初期(1920年代~1930年代))