正受院に残る近藤重蔵の自刻像
どんな伝承か
文政の三蔵の一人に数えられた近藤重蔵守重は、明和八年に江戸で生まれた。寛政七年に長崎奉行の手付として赴任し、そこで西洋の学問に触れたことが後の素地になった。同九年には蝦夷地取締の必要を幕府に説き、翌年には松前へ渡って北門警備の第一線に立ち、その年のうちに択捉島へ最初の足跡を印した。寛政十二年には高田嘉兵衛を伴って再び択捉に渡り、露人の建てた十字の標柱を抜き捨てて「天長地久大日本」の木標を建てた。晩年は不遇で、文政五年に瀧野川へ移り住み、自らの姿を石に刻んだ。その石像が正受院の本堂裏の丘に残る。
原典より
徳川治世中で最も文化の發達し、繁榮を極めた十一代將軍家齊の所謂「大御所様時代」には、有名な「寛政の三奇人」が現はれ、更に「文政の三藏」が現はれた。—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・昭和初期(1920年代~1930年代)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・昭和初期(1920年代~1930年代))