薬研堀不動起立の事
どんな伝承か
薬研堀の不動は、もとは本所あたりの旗本の家に古くから伝わる仏の首だけだったが、家に良くないことが続き夢枕にも立つので、出入りの修験海宝院に与えられた。海宝院はこれを背負って江戸中を勧進して歩き、元文のはじめ、茗荷屋庄左衛門という茶屋の脇の空き店を借りて、首を門口に置き鐘をたたいて寄進を募った。いつしか参詣人が増え、茶屋の主が売女の罪で追放されるとその跡も取り込んで広げ、年に千両の初穂が集まるほどになった。のちに海宝院は国元の常陸へ帰ることになり、不動一式を本所弥勒寺の塔頭に百五十両で売り渡したので、今は弥勒寺の持ちになっているという。
原典より
右不動は元来本所辺御旗本の方にみぐし斗古来より持伝へ、作仏の由なりしが、度々不宜事のみ、或は夢枕等に見へし故、…—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。