怪妊の事
どんな伝承か
麻布あたりに屋敷のある寄合の松平氏の家来に、一人の娘がいた。いつのころからか身ごもった様子になったが、隠し男などいるような性質ではなく、朝夕父母のそばを離れず、心を寄せる男もいない。家の者が怪しんで問いただすと、娘はいくら考えても腹に覚えはないと神仏に誓った。寛政八年の四月が臨月にあたり、そのころには腹の中で何かものを言うような気配があった。言葉は聞き分けられないものの、腹の中から声がするのは確かだと人が語った。やがて生まれたら何が出てくるのかと、人々は怪しんで噂し合ったという。
原典より
近き頃は腹中にて何か物言ふ様成様子にて、其言語抔不分といへども娘が腹中の物音は相違なしと人の語りしが…—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。