空濠の上に響いた笙と篳篥
どんな伝承か
筆者の先輩に吉岡栄喜という老医師があった。長岡郡十市村で開業していた頃、客を招く支度のため朝まだ暗いうちに隣村の魚市場へ出かけた。その隣村は筆者の村で、沙地という部落を越して仁井田の部落へ入る処に聖神という場所があり、聖神社という社が山を背にして南向きに立っていた。社の前は路一つ隔てて空濠になり、当時は闘犬場で相撲場のような土俵が築かれていた。その先は海岸の松原で、笑い婆が出る、天狗が出る、路傍の楠の老木を伐ろうとすると血が出るなどと言われる淋しい処であった。少しも迷信を持たない老医師が社の前まで来ると、空濠の上空で笙や篳篥の雅楽を奏するような音がしていた。あまり面白いので足を止めて聞いているうちに、音はばったり止んだ。
原典より
* 喧嘩する石の狐 (294)* 美人に化けた貉 (295)* 墓を棄てる (296)* 狐の本音 (296)* 空中に消えた兵曹 (297)* 怪談黒子禍 (301)* 啞の妖女 (311)…—— 日本怪談実話(田中貢太郎・河出文庫・1938年(昭和13年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本怪談実話(田中貢太郎・河出文庫・1938年(昭和13年))
『日本怪談実話』は、田中貢太郎が昭和十三年に著した実話怪談集を河出文庫に収めたものである。明治以降に著者が聞き集めた怪異を報告調の短文で綴り、戦地の霊験や戦死者の知らせ、狐狸・天狗・海坊主、トンネルや自動車に現れる女、幽霊写真、狐狗狸などを扱う。元本は改造社刊の『新怪談集(実話篇)』で、冕言に始まって二百を超える小話を並べ、巻末に川奈まり子の解説を付す。