矢尽山と板渡しの地名由来
どんな伝承か
衣川の館を破られた安倍貞任は、胆沢川北岸をめざして敗走した。若柳兎口の館は南からの攻めに適さず、貞任は胆沢川を渡って大きな歩幅で逃げ、その付近を大歩、安堵して歩幅の縮んだ所を小歩と呼ぶようになった。永徳寺山、門ヶ城館、法願館と退き、猪鼻館に拠って一年余り義家軍を防いだが、義家は城のくら山の絶壁をかんじきで登り火矢を射込んだ。板を敷いて川を渡った所は板渡し、矢の尽きた山は矢尽山、馬を止めた所は馬留、毒を流した川は毒水沢と呼ばれるようになったと伝わる。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
胆沢町史 11(民俗編4)――口承・伝説(胆沢町(編)・胆沢町史)
『胆沢町史 11(民俗編4)――口承・伝説』は、胆沢町の町史民俗編の一冊のうち、第四章「口承・伝説」を収めたものである。第一節は松浦佐用姫と高山掃部長者の伝説を扱い、胆沢・水沢周辺の伝説地を列挙したうえで、町内に伝わる佐夜姫の本地物の写本や『南部叢書』所載の「奥州胆沢高山実伝」を翻刻する。第二節「いさわの昔話」は大蛇・狐・むじな・飢饉・戦後の怪異などの話を番号順に並べ、第三節「いろいろな昔話」へと続く。