仁屋と三吉屋の対立
どんな伝承か
港の背後の金光寺山から見ると、湾に沿って五、六〇戸の民家がひしめく。湾正面の一等地である式地区に土着の代表格である仁屋があり、新開地の岬、能田地区に新興勢力の三吉屋がある。この両家の対立抗争が豊田を人狐騒動に巻き込んだという。式地区ではもともと公文の和巻家と年寄の仁屋が両親分で、下に一五、六軒の本家・分家・子方・舟子が系列化し部落内婚を事とした。耕地が狭いため隣の宇受賀とは享和以来、東とは元文の頃から境界を争い続けた。文化文政期に貨幣経済が及ぶと仁屋が問屋を兼ねて和巻家を凌ぎ、両家は土地争いにしのぎを削ったが、新興の三吉屋と新屋敷の台頭で土着組は仲直りし、矛先を三吉屋排斥に転じた。
原典より
港の背後にある金光寺山から見ると、湾に沿って、五、六〇戸の民家がひしめいている。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。