三吉屋の探訪
どんな伝承か
岬の能田地区にある三吉屋は豊田における受難者の第一号であった。屋敷構えは和巻家や仁屋の隠岐造りと違ってきわめて近代的で、当主の橋本老は八三歳、かつて川崎汽船の外国航路で機関長を勤めた人であった。三吉屋は橋本老で八代目、三代目から回船業を始め、豊田の港にいた五隻の小渡海船はすべて三吉屋一門のものだった。銭部屋を設けるほど儲け、島後に山林を買い、農民に金を貸して利子を米で取る米賦を行なった。文政年間、飢饉の年に日の津浦へ漂着した官米積みの船の米を村人に分けた安来屋利平太の一件で村費がかさみ、徳田屋からの借金を三吉屋が肩代わりしたことから、人狐を受けついだとの陰口が立ちはじめたという。
原典より
三吉屋こそ、豊田における受難者の第一号であったからである。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。