人狐の烙印
どんな伝承か
三吉屋四代目の周造は仕立船で島後へ渡り、雨中の荷役で大熱を発した。豊田へ帰ろうとしたが風向きが悪く、有名な前原屋狐のいる宇賀の物井港に着き、そこでしばらく身体を休めてから帰って床についた。仁屋の法要に集まった村方一統に、周造の熱病は宇賀物井の前原屋狐が憑いたためだという情報が流される。部落民の一団が三吉屋を襲い、人狐を追い出すのだと高熱に苦しむ周造を打擲し、周造は三三歳で死んだ。母キクは出雲大社国造家を頼って蟇目の秘法を受け、跡目の峯太も北島家の御神閹を二度願い出て証文を持ち帰ったが、効き目はなく三吉屋一門の狐持ちは確定した。
原典より
順風満帆の三吉屋も、たいへんな不幸にみまわれる。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。