東勝寺に果てた北条一門の最期
どんな伝承か
元弘三年五月、新田義貞の軍勢に攻め込まれた鎌倉は六日にわたる攻防の末に炎に包まれ、小町の幕府の庁や執権北条高時の屋敷も焼け落ちた。高時は生き残った一族と兵を率いて、葛西ヶ原にある北条家の菩提寺東勝寺に入った。その数は九百人足らずで、誰も降ろうとせず、手柄話は冥土の舟の楽しみにしようと語り合いながら、互いに刺し違えて果てていった。五月二十二日の夕方、高時も自害し、鎌倉幕府はここに滅んだ。江戸の学者室鳩巣はこの八百七十人の殉死を『駿台雑話』で称え、昭和二十八年には材木座の松林から九百体ほどの遺骨が掘り出されたという。
原典より
この少し前、第十四代執権北条高時は生き残りの一族一門と残兵を集めて葛西ヶ原の北条家菩提寺の東勝寺に入った。—— 神奈川の史実と伝説(小森良章・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
神奈川の史実と伝説(小森良章・1975年(昭和50年))
『神奈川の史実と伝説』は、新聞記者から県政の仕事に転じた小森良章が昭和五十年に著した郷土史の読み物である。倭建命の東征から鎌倉幕府の滅亡までを範囲に、神奈川県内に残る伝説を十一の篇にまとめ、走水の弟橘姫や足柄山の金太郎などを取り上げる。各篇は伝承地を副題に掲げ、伝説とその背景にある史実を結びつけて語り、古事記や吾妻鏡などの記録を引きながら著者の推測も交えている。