伝通院に並ぶ清川八郎とお連の墓
どんな伝承か
出羽庄内の豪士、清川八郎正明は文久三年二月に幕府浪士組を結成させたが、その力を倒幕に転じようとする野心を見抜かれ、同年四月十三日の夕、麻布十番の友人宅からの帰途に六人の刺客に襲われて三十四歳で落命した。急を聞いた親友の石坂周造は現場に駆けつけ、首を斬って持ち去り、清川が寄宿していた山岡鉄太郎の家へ運び込んだ。目明しに嗅ぎつけられた山岡は隠し場所に苦しみ、押入から塵箱、道場の床下、裏庭の大樹の根元へと移した。首はのちに伝通院横の所静院へ密葬され、寺の廃絶とともに伝通院の所管となって、妾お連の墓と並んで今も立つ。
原典より
水戸浪士との密交に對する幕府の疑念と、殺人の廉に因る町奉行の追窮とに追われる身を以て、苦心努力を重ねて兎も角文久三年(皇紀二五二三年)二月四日に「幕府浪士組」(新撰組の前身)を結成させた出羽庄内の豪士清川八郎正明は、この…—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・昭和初期(1920年代~1930年代)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・昭和初期(1920年代~1930年代))