目黒の筍を伝えた山路家の家訓
どんな伝承か
荏原郡品川領戸越の人、山路治郎兵衛勝孝は、回漕業の縁で薩摩藩の上屋敷に出入りするうちに孟宗竹を知り、寛政元年五月に薩摩から数株を取り寄せて自分の宅地に植えた。これが江戸に孟宗竹が広まる始まりである。秋に根を掘り起こして弱った根を切り、堆肥や馬糞を施す工夫を重ねたので筍は大きく柔らかく育ち、神田多町の青物市場へ出荷されて目黒の筍と称された。勝孝は文化二年十二月八日、六十八歳で没した。山路家には勝孝が子孫に残した十二か条の書き置きが伝わり、法度を守ること、父母に孝行すること、収入の四分の一を蓄えることなどを説いている。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
城西風土記と昔語り(熊沢宗一・1959年(昭和34年))
『城西風土記と昔語り』は、東京中野の江古田に住んだ熊沢宗一が昭和三十四年に著し、自ら発行した郷土誌である。中野長者と淀橋の伝説、御犬小屋や桃園の旧跡、新井薬師、江古田の獅子舞、内藤新宿や高田馬場の昔語りなど、中野と近在の伝説・旧跡・寺社を、古文書や碑文、琵琶歌も交えて記す。全二十章の後半には著者の百姓時代や終戦直後の食糧事情、台風の被害、日露戦争の軍隊日誌を収め、巻末に著者略歴を付す。