北新宿の帰還兵と母の予知夢
どんな伝承か
昭和二十一年五月、石川光男は南ベトナムのサイゴンから復員し、背負えるだけの荷を負って東京の北新宿の家へ帰り着いた。あたりは見渡すかぎりの焼け野原で、家はトタン葺きのバラックだった。中では母が一升瓶で米をついている。敬礼して帰還を告げると、母は軽くほほえんで「靴を脱いであがりな」と言い、また米をつき始めた。驚きも涙もない様子に拍子抜けしたが、理由は後で知った。彼が海へ投げ出されて死にかけたその夜明け、母は夢うつつに、雲へ乗るようなのろい動きでもがく息子の姿を見た。ただ事ではないと起き出して仏壇に灯明をあげ、三時間ほど命乞いをしたのだという。気が楽になった母は、そのときから息子は助かったと信じきっていた。
原典より
弘前の軍隊で、背嚢に外套こうくっつけるわけですが、私のように無器用なのは出来ないんで、いつもやってもらった人なんですが、「兵隊ってつまらねえ。—— 現代民話考 ― 軍隊(松谷みよ子・民話・口承文芸) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
現代民話考 ― 軍隊(松谷みよ子・民話・口承文芸)
『現代民話考 ― 軍隊』は、松谷みよ子が編んだ、軍隊と戦争をめぐる現代の民話の集成である。日本民話の会の雑誌『民話の手帖』での呼びかけやアンケート、聞き書きによって寄せられた話をもとに、十五年戦争を中心に徴兵検査から新兵のしごき、戦地、虐殺や飢え、敗戦、収容所、戦犯、軍隊生活の怪談までを収める。巻頭に序文「明日の民話のために」と論考「軍隊考」を置き、十三の部に分けた各話の末に話者と回答者の名と在住地を記す。