天井一面に広がる老婆の顔と長い舌
どんな伝承か
七月十八日、稲生屋敷では茶碗のたぐいが部屋中を飛び回って砕けたが、捨てておけば音がすさまじいだけで害はなく、平太郎はもはや物の怪と同居しているような心持ちであった。その夜、初更を過ぎると、台所口から曲尺のように折れ曲がった手がいくつも伸び縮みし、座敷をぎくしゃくと動き回った。構わず寝入った平太郎がふと目を覚ますと、天井いっぱいに大きな老婆の顔が現れ、長い舌を垂らして棟を突き抜け、平太郎の胸から顔までなめ回した。それでも平太郎は打ち捨てておいたという。
原典より
天井一めんの大きなる老婆の貌出て、やがて長き舌を出し、棟をつらぬきて、平太郎が胸より顔をねぶりまはし—— 日本の幽霊たち ― 怨念の系譜(阿部正路) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本の幽霊たち ― 怨念の系譜(阿部正路)
『日本の幽霊たち――怨念の系譜』は、阿部正路が書きおろした日本文学の幽霊論で、刊行は日貿出版社が手がけた。『竹取物語』『源氏物語』『平家物語』などの物語、『日本霊異記』から『遠野物語』『聴耳草紙』に至る説話、能と歌舞伎、さらに三遊亭円朝・泉鏡花・森鴎外・小泉八雲らの近代の作品に現れる幽霊をたどり、怨念の系譜として読み解く。第一章で幽霊の時・季節・姿・場・目的を論じ、終章で稲生屋敷の物怪や百鬼夜行など幽霊の周辺に及ぶ。