新興の徳田屋を襲う
どんな伝承か
三年後に利平太が再び上京し吉田神社へ祈禱を依頼した頃には、前原屋狐は村方で大っぴらに取り沙汰されていた。全国の憑きもの落としの総本山である吉田神社からもらった「野狐などの障り一向これ無し」との証明書の効き目はほんの束の間で、村方の排斥の矛先は宇賀村第一の新興勢力である徳田屋へ転じた。徳田屋はもと社家宇野家の分家であったが、化政期には漁業と回船業で急激に資産を太らせていた。前原屋万蔵とは義兄弟の間柄で、万蔵に同情して縁を切らなかったことから狐持ちにされ、本家の宇野家からも義絶されたのである。
原典より
それから三年後、利平太が再度上京し、吉田神社に祈禱依頼したときには、大っぴらに、前原屋狐が村方でとり沙汰されていた。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。