淀橋で消える花嫁の輿
どんな伝承か
中野長者に殺された下僕たちの怨念が長者の一人娘小笹に祟り、娘が蛇の身となって十二社の池に消えてからというもの、淀橋は姿不見橋と呼ばれて人々に気味悪がられた。嫁入りの輿がこの橋を通るのを嫌うようになったのもその頃からで、着飾った花嫁の輿が橋にさしかかると、花嫁の姿が輿の中から不思議と消えてしまうといわれた。鷹狩りの帰りの将軍の先供が橋の上で足を止め、伝説を聞いた将軍が脇道から江戸城へ帰ったこともあるという。この不吉な言い伝えは明治、大正になっても消えずに花嫁の通行を妨げたので、大正二年、中野町の篤志家浅田政吉が怨霊を退けるため橋の清めの式を行った。
原典より
嫁入の輿が此橋を通ることを嫌うようになつたのも其頃からで、それは、綺麗に着飾った花嫁の輿が此橋に差掛ると、不思議に花嫁の姿が輿から消えて無くなるとゆうのであつた。—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年))
『行楽と史蹟の武蔵野』は、寺島裕が昭和十二年に著し、新生堂から発行した武蔵野の史跡探訪記である。狭山丘や山口貯水池の周辺から、行田・粕壁・生田・淀橋・中野・柴又・多摩御陵などの社寺、城址、古戦場、塚を歩いて訪ね、交通の便とともに由緒や伝説を記す。小橋一太と新井堯爾の序文、著者の自序を巻頭に置き、前著「史蹟の武蔵野を探ねて」に続く行楽案内として土地ごとの短い節を連ねる。