④ 曽谷の下の寺(分校)へ通った頃
どんな伝承か
学校は国分村下貝塚と国分村曽谷の二つに分かれていたが、国分村まで行くには田んぼを抜けて行かねばならず大変だった。そこで下貝塚の子供たちは相談のうえ、曽谷の下の寺に設けられた分校に通うことにした。語り手は末っ子で体が弱く、母親がうるさかったという。この辺りの女の子は五人ほどで、当時の学校は行っても行かなくてもよく、鉛筆で読み書きを習い、唱歌もなく君が代くらいだった。学校に行けない子供は東京方面へ奉公に出た。今の子供は親が何でも心配してくれて幸せだと古老は語る。
原典より
ほんとうは国分村下貝塚と国分村曽谷と二つに学校が分かれていましてね、国分村まで行くには大変だったですよ。—— 市川の伝承民話 第2集(市川民話の会・市川の伝承民話・1981年(昭和56年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
市川の伝承民話 第2集(市川民話の会・市川の伝承民話・1981年(昭和56年))
『市川の伝承民話 第2集』は、市川民話の会が昭和五十六年に発行した民話資料集である。千葉県市川市の曽谷・宮久保・下貝塚と行徳の古老から聞き取った、狐や狢に化かされた話、火の玉、伝説、昔話、唄、暮らしの禁忌や苦労話を、方言を残した語り口のまま記録している。世間話・伝説・昔話・唄・生活譚の五部を地区別に並べて各話の末に話者と記録者を記し、巻末に語り手の紹介、話者と採訪者の名簿、採訪記、あとがきを付す。