年が明けて三十五になった熊が
どんな伝承か
熊は田沼から自分の家にちょっと寄り、赤池の方へ出て本大須賀村へ向かった。田沼から本大須賀村までは三里ほどの道である。走るように歩いて伊篭の宮本という料理屋へ上がり、夕日の射す二階の廊下を進んでいくと、一室から障子を開けて顔を出した者がある。酒で目元を紅くしたおはなであった。逃げていた女に思いがけず出会い、おはなは呆れたように声を上げる。室の中には長松が此方向きに坐って杯を持っていた。長松は落ち着かぬ声で「今日こちらに用事があって来たらおはなさんがいた、おまえのことを話していたところだ」と言い、熊は再会の喜びのあまりその場の陰りに気づかなかった。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
奇談全集 現代篇(田中貢太郎・奇談全集・大正~昭和初期(推定))
本書『奇談全集 現代篇』は、田中貢太郎による幕末から昭和初期にかけての日本各地の怪談・奇談を集成した作品である。明治維新期の松木事件から関東の連続殺人鬼事件まで、実地取材に基づく歴史的事件の記録と、民間に伝わる幽霊譚・怪異現象が混在している。特徴は、単なる怪談の創作ではなく、実在の地名・人物・事件を背景に、社会的矛盾や人間の怨恨が生み出す超自然現象を描く点にある。