井戸端でけいを打ち倒した熊
どんな伝承か
八月十九日が終わって二十日の午前零時を回ったころ、熊はけいの家の格子のそばに立っていた。のぞくと、薄暗い灯の下、蚊帳の中に二つの影がある。自分を包んでいたものが粉々に砕けたように感じた熊は、絶望と怒りに駆られて雨戸を開け、蚊帳の裾をまくって女の髪をつかみ、逃げようとする寅松の腕を押さえた。老婆がとりなし、女が嫌だと突っぱねるなか、寅松は熊を突き飛ばして逃げ、女も蚊帳を出て土間へ飛び下りた。熊は土間に積んであった物を手に取って後を追い、井戸のところで追いついて女を打ち倒した。老婆の叫び声のなかで女はがっくりと崩れ、熊は暗がりへ消えた。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
奇談全集 現代篇(田中貢太郎・奇談全集)
『奇談全集 現代篇』は、田中貢太郎が幕末から大正にかけての事件や奇談を読み物に仕立てた作品集である。明治十一年に相模の真土村で起きた松木騒動、大正十五年に千葉の久賀村一帯で起きた鬼熊の事件、香取郡の連続殺人、伊賀上野の破獄、京都の天誅などを、記録や関係者の話をもとに描き、松木騒動には筆者が大正六年に現地を訪ねた補遺を付す。播磨屋橋遺聞のように、筆者自身が創作と断る話も含む。