奈良井の宿の湯殿にいた女
どんな伝承か
泉鏡花『眉かくしの霊』の一場面で、作者の友人境賛吉の体験として語られる。中山道の奈良井の宿に泊まった境は、女中のお米から湯が空いたと知らされて湯殿へ向かうが、中では誰かが湯を使う音がする。帯を解きかけたまま扉に頬を寄せてうかがうと、提灯の蝋燭が暗くなっては明るみ、梅の香を温もりで溶かしたような白粉の匂いが漂った。先客は女だったのである。改めて勧められて行くと、湯がかすかに動き、冷たく艶めいた人肌の気配が肩にからんで首筋をなでた。入りますよと声をかけると、いけませんと澄んだ声がはっきり返ってきた。
原典より
思い切って、「入りますよ、御免」というと、「いけません」と澄みつつ、湯気に濡れ濡れとした声が、はっきり聞えた。—— 日本の幽霊たち ― 怨念の系譜(阿部正路) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本の幽霊たち ― 怨念の系譜(阿部正路)
『日本の幽霊たち――怨念の系譜』は、阿部正路が書きおろした日本文学の幽霊論で、刊行は日貿出版社が手がけた。『竹取物語』『源氏物語』『平家物語』などの物語、『日本霊異記』から『遠野物語』『聴耳草紙』に至る説話、能と歌舞伎、さらに三遊亭円朝・泉鏡花・森鴎外・小泉八雲らの近代の作品に現れる幽霊をたどり、怨念の系譜として読み解く。第一章で幽霊の時・季節・姿・場・目的を論じ、終章で稲生屋敷の物怪や百鬼夜行など幽霊の周辺に及ぶ。