生贄を埋めた大堤の由来
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どんな伝承か
昔から小山油地と前大畑の境をなす所を大堤と呼び、今も堤防の痕跡が残る。灌漑水路のなかった時代、ここに大きな溜池が作られ、松の木沢を通じて一帯の稲作の水源となった。堤の崩壊を防ぐために猫や犬、馬までが生贄として生きたまま埋められ、馬の装具や甲冑も埋められたと伝える。またこの堤の起源として、衣川の娘袈裟に懸想して誤って彼女を斬った遠藤武者盛遠が出家して文覺となり、諸国を巡って神護寺の再興を志し、頼朝の挙兵を促したのち、晩年に衆生済度の一つとして自ら大堤の構築を監督したという言い伝えを残している。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
胆沢町史 11(民俗編4)――口承・伝説(胆沢町(編)・胆沢町史・自治体史(民俗))
岩手県胆沢町の伝説・昔話を網羅する。第一節は高山掃部長者と松浦佐用姫の物語で、薬師如来本地松浦佐夜姫誕生記、高山掃部長者竹生嶋弁財天胆沢物語、『南部叢書』所載の奥州胆沢高山実伝(高山稲荷の由来、嘉門長者の妻が嫉妬で大蛇に化し止々井の大堤に隠れて人を害し、美女を牲に供える年番が定められ、遠州小夜の中山から小夜姫が身売りして奥州に下り、牲に上るが神明仏陀の冥助で害を免れ大蛇の骨角を埋葬、潟岸薬師・諏訪明神を祀る)など複数の版と考証を収める。
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