武士団の帰農と農民の反発
どんな伝承か
明治三年九月、母里藩一六二人の家臣団が帰農した。必要な一二〇町歩の土地は三万七千両の田地代証券で半ば強制的に農民から買い上げられたが、農民は最も痩せた土地を売りつけ、小作料も怠納して抵抗した。証券発行でインフレが進み、ほとんどの士族は土地を手放して母里を去った。農民たちは藩主に強制されて氏子にされていた稲荷神社をボイコットし、西八幡宮横の台地に二代藩主松平直立が松江の城内稲荷を勧請して建てた稲荷社は荒廃して八幡宮に合祀され、今は石像の神狐が影を落とすだけである。さらに旧領内に残った本士族や典医には狐持ちの烙印が押され、大狐持ちの称号まで取り沙汰された。
原典より
武士団にとっては、田園にあって、悠々としているこうした寄生地主の生活こそ、一番望ましいものと考えられたという。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。