対岸の岩棚に立つ革靴の男
どんな伝承か
奥多摩のさらに奥、山梨県の丹波川へ注ぐ一ノ瀬川での出来事として伝わる。盛夏、本流で釣果の出なかったSは支流へ分け入り、アマゴを二尾続けて掛けたあと当たりが止まった。大淵に背を向けかけたとき、低くくぐもった水音に混じって、あえぐような人の声が聞こえた。振り向いても岸壁との間に人の立つ隙間はない。やがて肩を叩かれた気がし、スミマセンという声が幾重にも重なって迫ってきた。竿を捨てて岸へ逃げ、振り返ると、誰もいないはずの対岸の岩棚に革靴とスーツ姿の初老の男が立って釣りをしていた。男は靴音を残して岩へ消えた。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
水辺の怪談 ベスト(つり人社)
『水辺の怪談 ベスト』は、釣り人たちが海や川で出会った怪異の体験談を集めた本である。お盆の夜釣りでの金縛り、伊豆大島の釣り宿の離れ、渓流の滝壺や湖のボート、バス釣りの遠征先の宿などを舞台に、釣具店主・会社員・釣りライター・バスプロら十七人が自身の体験を一人称でつづる。「海の章」五編と「川・湖の章」十二編の二部に分け、各編の冒頭に筆者の在住地と釣り歴を記した短い紹介を置き、四人は仮名で書く。