駐在所の洋剣で長松に斬りつけた熊
どんな伝承か
放火の騒ぎで向後巡査が消防姿になって出ていったのと前後して、熊は駐在所に姿を現した。電灯だけがぽつんとともる詰所の壁に洋剣が掛かっているのを見つけると、それを奪い、駐在所を出て坂を下り、道のはずれにある長松の家へ向かった。おはなとぐるになって自分から金を巻き上げたと熊がにらんでいた男である。熊が雨戸をがたがたと揺すると、長松は軒下に置いた自転車を盗まれてはならないと思って飛び起き、雨戸を開けた。そこを待ち構えていた熊は、振りかぶった洋剣でいきなり長松に斬りつけ、長松は驚いて後ろへ飛びのいた。斬りつけられた長松は家を飛び出して逃げ、熊は後を追った。長松の女房は二人の子を起こして近くの家へ逃げ込んだ。よろめいた長松に追いついた熊は、首筋のあたりを突き刺して倒し、それから長松の家へ引き返したが、中には誰もいなかった。熊は近所を探して回り、知り合いの老人の家から長松の女房の声を聞きつけて、出してくれと迫った。老人は、長松に恨みがあっても女房子は知らないことだ、一生の頼みだと命乞いをした。材木運びで世話になってきた老人の頼みに、熊は、自分は長松の家に借金があるが、自分が死んだあと女房子に催促しないなら許してやると言い、老人が引き受けたのでその場を去った。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
奇談全集 現代篇(田中貢太郎・奇談全集)
『奇談全集 現代篇』は、田中貢太郎が幕末から大正にかけての事件や奇談を読み物に仕立てた作品集である。明治十一年に相模の真土村で起きた松木騒動、大正十五年に千葉の久賀村一帯で起きた鬼熊の事件、香取郡の連続殺人、伊賀上野の破獄、京都の天誅などを、記録や関係者の話をもとに描き、松木騒動には筆者が大正六年に現地を訪ねた補遺を付す。播磨屋橋遺聞のように、筆者自身が創作と断る話も含む。