入会山事件
どんな伝承か
文化六年(一八〇九)、島根郡講武に起きた入会山論争から狐持ちの指定者が出た。左義長の日に下講武の青年が上講武内の入会山へ薪拾いに入ったのを上講武の村人が拒んだのが発端で、松江藩の裁定が下講武に有利だったため上講武側は不満を抱き藩政を批判した。処罰を恐れて伯州の大山寺領へ逃れた一〇数名は、藩が上講武の年寄役左野太に偽りの通報をさせて呼び戻し、本庄浦へ帰港したところを捕えられ、主謀者三人が斬られて村の氏神熊崎天王の近くに首をさらされた。憤激した村人は裏切り者の左野太を、さらに北講武の有力者會田家をも狐持ちに指定した。
原典より
文化六年(一八〇九)島根郡講武地方に起きた入会山論争の結果、関係の指導者の中から、狐持ちに指定されるものがでてくる。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。