松江の支藩の場合
どんな伝承か
松江藩の支藩が置かれた広瀬や母里は小さな田舎町だけに、狐持ちへの排斥は松江より激しく、今も根強く残る。尼子氏の旧城下は寛文六年の大水害で川底に沈み、その後山手に造られた広瀬藩の城下町が今の広瀬である。城山には本家の城内稲荷が勧請されていたが、維新後は近くの都弁代神社に合祀された。著者は旧藩の理財方岩田瀬左衛門の旧宅で、九十歳近い二人の老婆から昔語りを聞いた。士族はみな狐持ちと言われるが、足軽にあたる下組は百姓並みとして除かれ、本士族だけがそう呼ばれたという。広瀬に残る本士族は十数戸で、今も狐持ちと言われるが、排斥は農村部より緩やかだという。
原典より
松江の支藩が置かれていた広瀬や母里では、事情が異なる。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。