箭が降り注いだ小字箭畑
どんな伝承か
鶴ヶ峰には、畠山重忠とその一党を葬ったという六ツ塚があり、重忠は元久二年六月二十二日、従者百三十四人とともに北条時政の命による北条義時の三万の鎌倉勢とこの地で戦い、悲壮な最期を遂げたと記されている。堂守の和尚によれば、南の二俣川方面には北条軍が陣を張った万騎ヶ原があり、西の山裾には愛甲季隆が重忠の近づくのを待ったという「隠れ穴」、畑中には重忠の首を斬った場所という首塚、その首を洗った首洗井、重忠が地に挿した箭が篠竹になったという倒さ竹がある。そしてこの郷の小字に「箭畑」という名があり、それは激戦の際、鎌倉軍の射た箭が集中した場所だという。近くには重忠の夫人が駕籠の中で自害し、その駕籠のまま葬られたと伝える駕籠塚もある。
原典より
『それから、此郷の小字に「箭畑」とゆう名がありますが、それはあの激戦の時、鎌倉軍の射た箭が集中された場所だそうです』—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年))
『行楽と史蹟の武蔵野』は、寺島裕が昭和十二年に著し、新生堂から発行した武蔵野の史跡探訪記である。狭山丘や山口貯水池の周辺から、行田・粕壁・生田・淀橋・中野・柴又・多摩御陵などの社寺、城址、古戦場、塚を歩いて訪ね、交通の便とともに由緒や伝説を記す。小橋一太と新井堯爾の序文、著者の自序を巻頭に置き、前著「史蹟の武蔵野を探ねて」に続く行楽案内として土地ごとの短い節を連ねる。