打ち首の後に三の丸へ出る亡霊
どんな伝承か
慶長十一年、佐賀城主の鍋島直茂が江戸へ出ている留守のあいだに、城中の若侍と腰元ら男女十四人が不義密通をはたらいた。これを打ち首にしたところ、それ以来、城内三の丸の部屋ごとに人魂や亡霊が現れるようになった。『焼残反古目録』は、夜中に一人で置いておくことができず、出くわした者は病み悩んだと記している。城主が参勤を終えて帰るまでどんな祈禱も効かず、怨霊は城が亡びるまで出つづけたという。著者はこの怪を、同じ年に密通事件を起こした恨の介のモデルの話と根を一つにするものとみる。
原典より
そこで打ち首にしたところ、以来、城内の三の丸の部屋部屋に、人魂や亡霊が出るようになり、城主が参勤を了えて帰城するまで、いかなる祈禱も効果なく、城が亡びるまで怨霊が出現しつづけたという。—— 日本の幽霊たち ― 怨念の系譜(阿部正路) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本の幽霊たち ― 怨念の系譜(阿部正路)
『日本の幽霊たち――怨念の系譜』は、阿部正路が書きおろした日本文学の幽霊論で、刊行は日貿出版社が手がけた。『竹取物語』『源氏物語』『平家物語』などの物語、『日本霊異記』から『遠野物語』『聴耳草紙』に至る説話、能と歌舞伎、さらに三遊亭円朝・泉鏡花・森鴎外・小泉八雲らの近代の作品に現れる幽霊をたどり、怨念の系譜として読み解く。第一章で幽霊の時・季節・姿・場・目的を論じ、終章で稲生屋敷の物怪や百鬼夜行など幽霊の周辺に及ぶ。