便所から消えた多四郎の片袖と木履
どんな伝承か
江戸南鍋町に住む野山種麿の子多四郎は、文化十三年、十五歳のとき、母の甥にあたる芝口日蔭町の万屋安兵衛の家に逗留していた。誤って釘を踏み抜き病み臥していたが、五月十五日、すでに灯をともすころ、痛む足に無理に木履をつけて長屋裏の便所に立ち、小便をしていた。すると「アッ」と呼ぶ声がしたので家の者が出て見ると多四郎の姿はなく、衣類の片袖がちぎれて落ち、履いていた木履は屋根の上に落ちていた。人々が驚いて口々に名を呼んだが音もない。これぞ世にいう天狗の所為であろうとして、人を走らせて父のもとへ知らせたという。
原典より
既に火を燈せるころ痛む足に、しひて木履をつけて長屋裏なる便處に立ちながら、尿して居けるがアッミ呼ぶ聲しければ家内より出で見ろに多四郎は見えず。—— 動物妖怪譚(日野巌・日野巌・動物妖怪譚・1926年(大正15年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
動物妖怪譚(日野巌・日野巌・動物妖怪譚・1926年(大正15年))
『動物妖怪譚』は、日野巌が大正六年に筆を起こし、大正十一年の跋と大正十五年の再記を添えて著した伝説の動物の研究書である。鬼・天狗・河童・人魚・雪女・龍・雷獣・狐・狸・獏・鯰・猫など二十六の項目を立て、記紀や万葉集から近世の随筆までの記事を原文の引用ごと示して起源と変遷をたどり、動物学の知識で正体を考える。總論で起原・歴史的変遷・分類などを論じ、結論では迷信から科学へ近づくことを説いて閉じる。