大山寺の仲裁も空しい離縁と愁訴
どんな伝承か
村八分のあと、宇賀村の男の家は村に病人が出るたびに狐のせいにされ、願成寺や千福寺が厄除けの祈禱を盛んに行って、難儀は増すばかりだった。海士村の願福寺、美田村の長福寺、別府の大宮司が見かねて和解を仲立ちしたが、村も親類も承知しなかった。男は伯耆の大山に登って窮状を訴え、二度目には大山寺から使者が下って村へ申し渡し、庄屋の茂左衛門が関係の回復を約束した。しかし約束は一つも守られず、従弟の妻は幼い娘を残して菱浦の実家へ引き取られ、嫁いでいた男の娘も送り返された。一門の滅亡を恐れた男は、文政十一年に書面で愁訴した。
原典より
このようにして推移しますならば、私方は滅亡するより以外にはありません。—— 憑きもの持ち迷信――その歴史的考察(改訂版)(速水保孝・1953年(昭和28年)初版・1956年(昭和31年)新版) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
憑きもの持ち迷信――その歴史的考察(改訂版)(速水保孝・1953年(昭和28年)初版・1956年(昭和31年)新版)
『憑きもの持ち迷信――その歴史的考察(改訂版)』は、速水保孝が昭和二十八年に著し、昭和三十一年に書き加えて新版とした研究書である。出雲・隠岐を中心とする山陰の狐持ちなど、家筋に結びつけられた憑きもの迷信を、法務局が扱った人権事件、藩の触書や村の古文書、加茂町の世帯調査から集めている。狐持ちの家に生まれた著者の体験から説き起こし、江戸中期以降の新興地主への反感に起こりを求める。柳田国男が序を寄せている。