名主次郎太夫の還住事業と申合せ
どんな伝承か
名主次郎太夫は文政六年、組頭太郎右衛門・百姓長次郎とともに青ヶ島に渡って地ならしに着手し、以後段々に人を渡らせて還住事業を進めた。天保四年の申合せでは、まず道普請を第一とし全島を六組に分けて小頭を置き、西浦及び神子浦の二箇所に船着場を設けて連絡通路を開いた。翌年には西浦・神子浦の船着の傍に荷物蔵を建て、名主宅を新造して会所とした。伐開棟梁に彦右衛門、漁棟梁に徳右衛門を任じ、取締役年寄には太兵衛を指命して、鰹節は三年間島中に囲うよう定めるなど、堅実な計画のもとで公共のために力を尽くさせたという。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第1巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第1巻』は、柳田国男の著作を集めた著作集の一巻である。椰子の実の漂着から日本人の渡来と稲作を海の道に求める論考と、海神宮考・みろくの船・根の國の話・寶貝のこと・稻の産屋などの諸篇、大正期の南島旅行に基づく『海南小記』、昭和二十六年八月の自序をもつ『島の人生』を収める。いずれも海と島を舞台に、ニライカナイや宝貝、漂着や島の復興をめぐる民俗と歴史を論じている。