名主三九郎ら熊野二木島で客死
どんな伝承か
寛政九年七月二十九日、名主三九郎は再び船を仕立て、開発のための食料を積んで男女十四人で八丈を出帆した。ところがこの船も難船し、紀州熊野浦の二木島という海岸まで流された。滞在のあいだに乗組の十一人が病んで死に、その中に三九郎もいた。女一人は江戸に留め置かれ、八丈へ戻ったのは男二人だけである。橘南谿の西遊記続篇には、著者の友人で医者の喜多某がちょうど二木島に居合わせ、青ヶ島の漂流民を手当てした話が載る。船には三九郎の一家と家具まで積まれ、八丈で生まれた幼児もいたというから、彼は不安のただ中へ永住の覚悟で還ろうとしていたのである。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第1巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第1巻』は、柳田国男の著作を集めた著作集の一巻である。椰子の実の漂着から日本人の渡来と稲作を海の道に求める論考と、海神宮考・みろくの船・根の國の話・寶貝のこと・稻の産屋などの諸篇、大正期の南島旅行に基づく『海南小記』、昭和二十六年八月の自序をもつ『島の人生』を収める。いずれも海と島を舞台に、ニライカナイや宝貝、漂着や島の復興をめぐる民俗と歴史を論じている。