本山と真山が争った登り口の由来
どんな伝承か
霊山の信仰では、先達の職分が重んじられる場合、二つ以上の登り口が互いに競争相手を否認しようとするのは自然であった。男鹿の南北の生活利害も、あまりに有力な中心があるがゆえに、昔から調和の困難を見たのである。男鹿では北磯の側からの登り口を今では真山という名に確定しているが、本山の方の旧誌には新山とも書いている。真山という文字が後になって考え出されたらしいのを見ると、ある時代これを新山と呼ばせていたものが後に分立したと推測される。真山の側では光飯廃寺の元の庭に中興大師の御手栽と称する大樹が茂り、本山は門前の浜を控えて五社の社殿が南面している。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第2巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第2巻』は、柳田国男の紀行と旅の随筆を収めた著作集の一巻である。昭和三年一月の自序に続く「雪国の春」や菅江真澄の日記を読み解く文をはじめ、東北の村々の正月、火と炭、浜の暮らしの見聞、「秋風帖」「東国古道記」、昭和十五年十一月の自序を持つ「豆の葉と太陽」などの紀行を並べる。峠や古道、佐渡・五箇山・熊野などの土地を、住む人の暮らしと信仰から見ようとする文が多い。