温泉の山腹に立つ失踪した妻
どんな伝承か
盛岡の辺では、黄昏に婦人や小児が戸外にいることをことに甚だしく忌んだ。十年ばかり前のこと、この町に住んで醤油の行商をする者の妻が、夕方に戸口に立ってただ一人外を見ていたのを、近所の人々が気遣わしいことに思っていたが、それなりにふと行方を失った。亭主は狂気のように諸方を求め歩いたけれども、絶えて消息もないままその年を過ごした。翌年の夏、綱張の温泉に湯治に行き、日暮れに宿の外を見ると、わずか一二町先の山腹の熊笹の中に、あの失せた妻が立っていた。急ぎ走り出て追い掛けたが、次第に遠ざかり、嶺の方へ登ってついにまた見えなくなったという。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第4巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第4巻』は、柳田国男の著作を集めた定本の一巻である。岩手県遠野の伝承を佐々木鏡石から聞いて書いた「遠野物語」、山に入った人や神隠しを論じた「山の人生」、河童・ひだる神・一つ目小僧・天狗などを扱い妖怪名彙を付す「妖怪談義」を収める。ほかに「山人考」「史料としての傳説」「比丘尼石の話」「山人外傳資料」「『イタカ』及び『サンカ』」「山民の生活」など、山人・漂泊民・妖怪をめぐる論考を併せる。